創立125年、
創立者の思いを次の時代へ
わが校の創立者である杉浦鋼太郎先生は、安政5年(1858年)尾張徳川藩士の長男として生まれ、幼少より藩の学校で漢学を学びました。廃藩となり18歳で上京したのちは西南戦争に官軍の兵士として従軍、さらに明治14 年には自由民権運動に加わりました。また、明治17年には明治大学の前身である明治法律学校で法律学を学び、以後、わが校ばかりでなく、いくつかの学校の設立に関わりました。江戸~昭和という激動の時代を生き抜いた日本を代表する知識人であり教育者のひとりでした。
杉浦先生は、若い頃より西洋の考えに心を奪われる人々のなかで日本の良いところ大切にしようということを唱えていました。その間に多くの名士や国学者との交友があり、後に教育を展開するときに支援を頂くことができました。しかし、伝統だけを大切にしたのではなく女子教育、実業教育など時代の変化を感じ取りながら当時としては最先端の教育に注目していました。この考え方はわが校が大切にしている精神でもあります。
杉浦先生が、東京都千代田区神田三崎町に、わが校の前身である大成学館を設立したのは明治21年(1888年)。翌年には国語・国文を専門とする国語伝習所を併設しています。明治初期から欧米の文化を取り入れることに躍起となっていた、いわゆる「鹿鳴館時代」の真っ只中に、日本文化の源泉である国語教育の重要さを訴えて設立されたのです。
当時の国語・国文関係の老大家や有名・新進の学者をほぼもれなく講師に迎え、新聞記者や小説家、中学教員志望者など高度な国語教育を受けたいという学生たちが数多く集まりました。国語伝習所は、わが国の国語教育の殿堂とも言える存在でした。
講師陣のなかには、与謝野鉄幹も名を連ね、女子教育のための講義録には医学博士でもあった森鷗外が執筆しています。鷗外の弟の潤三郎は旧制大成中学の第3 回生です。国語伝習所に通った学生のなかには、日本の婦人参政権運動で有名な市川房枝もおり、女子学院に在籍していたにもかかわらず、授業が終わるのを待ちきれずに夕方から国語伝習所に通ったと伝えられています。
わが校は、昭和20年に戦火のために神田の校舎が焼失したことから、翌年に東京都三鷹市に移転し今日に至っています。発祥の地を離れ70 年余りが過ぎましたが、『大器晩成』という、生涯、青少年の教育に情熱を傾けた杉浦先生が大切に抱き続けた言葉は、今でも生徒・卒業生や教職員の心の中に息づいています。
そして、それは新たな息吹を得て、次代を見据えた教育の実践へと形を変え受け継がれていきます。